ボクシング始めたころはジムで練習して、洗濯 して、
焼肉屋、が日課だったよ。
日本プロボクシング協会
東日本ボクシング協会長
輪島功一スポーツジム会長
輪島功一さん
わじま・こういち 1943年、北海道士別市生まれ。25歳でプロデビューし、翌年には全日本ウェルター級チャンピオンに。71年に世界ジュニアミドル級王座を獲得し、6度防衛、2度奪還。77年引退。現在は「輪島功一スポーツジム」会長。
25歳での遅咲きデビューながら猛スピードで世界チャンピオンに。
6度の防衛と2度の奪還を果たした不屈のファイトと、「カエル跳び」の奇策でファンを魅了した輪島功一さん。
ボクシングとの出合いや、「カエル跳び」誕生の真相を聞きました。
現役時代、スタミナの素だったという焼肉への熱い想いもたっぷり語ってくれました。
北海道から上京、ジムに入門
――北海道士別市ご出身ですね。小さいときから働き者だったとか。
輪島 私の両親は戦後、北海道に入植した開拓者なの。開拓者の家ってのは、父親も母親も働くし、子どもだって小学校3年生にもなれば働くんだよ。
まだ小さくて役に立たない子は飯の支度するわけだ。私もやりましたよ。
だけど飯を炊いても米なんて釜の底のほうに少しだけ。あとは重たい順にカボチャ、芋、豆と重なってるような飯だ。
それじゃもたないから、荒地で育てた蕎麦を石臼で挽いて粉にして、練って、蕎麦がきにするんだよ。
それくらい貧乏だったから小学校6年生の時、養子に行ったんだ。養子先で飯は食えるようになったけど、そのかわり重労働が待ってた。
野良仕事やイカ釣り漁。小学生でも大人と同じ仕事するんだよ。大人は明け方、漁から帰ると寝られるけど、こっちは学校行くんだから、もうフラフラだよ。
だけど、それが嫌なら死んでしまうんだからね。「そうはいくか、このヤロウ」ってことだよ。この経験や負けん気が、生涯、私を支えてくれたんだよ。
――ボクシングと出合ったのは、もっと後ですか。
輪島 そう、10代で上京してから、いろいろな仕事をしたんだ。資金を貯めて商売を始めようと思ってたからね。
東京に出てきて7年目かな、建設会社で働いてたころ、当時の飯場の近くにボクシングジムがあったの。
「ふうん、サンパクジムかあ、おもしろそうだなあ」って。じつは「三迫(みさこ)ジム」だったんだけどね(笑)。
最速で世界チャンピオンに
――プロボクサーをめざして入門したんですか?
輪島 なーに言ってんだい、当時24歳と8カ月だったんだよ?そんなに遅くから始めてプロになる奴はいないよ。
まあ、当時の職場の幹部が「スポーツやる人間に悪いやつはいない」っていう考えでさ、私も「それもそうかな」なんて思って。
ところが最初から「おい、スパーリングやれ」ですよ。相手は8回戦ボーイですよ、強いですよ。それを「殴ってみろ」って言うんだ。重量級の選手は少ないから練習相手にされたんだな。
わけもわからずに「うえええ」って両手を振り回したら、けっこうボコボコ当たったんだよ。そしたら相手が怒ってね、本気でゴチーン!って殴られたからひっくり返ったよ。
だけど、それで嫌になって辞めちまうか、「今に見てろ」と思うかだよ。 私は夢中で練習して、次にそいつとスパーリングやったらパーン!って倒しちゃった。すると、もうちょっと強い奴を見つけて「次はあいつがライバルだ」、そいつも倒すと「次はあいつだ」。
毎回、相手は年下だ。向こうは「ラッキー」と思ってるんだよね、こっちが年とってるから。でも全員、KOしてやったよ(笑)。
そうやって、ボクシング始めて1年で日本チャンピオン、3年半で世界チャンピオンになったんです。これは世界で一番速いらしい。
奇策でハンデを克服
――強さはもちろん、奇抜な戦法でもファンを沸かせました。有名な「カエル跳び」はどうやって編み出したんですか。
輪島 あれをやったのは1971年に初めて世界タイトルに挑戦した時だよ。相手は世界チャンピオンでローマオリンピックの銀メダリストだ。
序盤、向こうは全然、打ってこない。打つ必要ないわけだよ、チャンピオンは引き分けでも防衛になるから。
「このままじゃ俺は負ける」と思ったよ。それで出たのが「カエル跳び」なんだ。
リングにしゃがみこんで、次の瞬間、ジャンプしながらパンチを繰り出す。そりゃ相手は怒ったよ、「なんだ、俺様に向かってその態度は?」って向かってきた。
当たれば倒されちゃうよ。でも、向かってくれば、こちらのパンチも当たる可能性あるわけ。
私は身長が小さい、リーチも短い。頭を使わなきゃ勝てない。だからいろいろ考えたんだよ。
――世界チャンピオンに2度返り咲いた不屈の闘志にもしびれます。
輪島 そうね、私はしぶとかったよ。それに「なぜ負けたか」がわかってたから、「次は、これに気をつければ負けない」って作戦を立てられたんだ。
そうは言っても一度はKOされた相手と再戦するのはプレッシャーだよ。それでも私は2回もやったよ、そして王座を奪還したよ。
だから、若い人はもちろん、働き盛りの人にも「可能性があるんなら賭けてみようよ」って言いたいんだよね。
ジム練習生たちへのまなざし
――88年に開設した「輪島功一スポーツジム」には、プロ選手だけでなくサラリーマンやOLも多いそうですね。
輪島 そうなんだ。会社行ってるとさ、上役にペコペコして、お客さんに無理なこと言われても「おっしゃる通りです」なんてこと、あるだろう?
で、うちに帰ったら女房に「今日も帰りが遅いわね!」なんて。それじゃどこで羽根のばすんだよ?(笑)
そんな人はうちのジムに来て「何だい、あのヤロウ!」って、バンバン殴ってストレス解消すればいいんだ。やってるうちにいい筋肉がついてくる。
それから挨拶や礼儀も身につくよ、私はそういうことに厳しいから。
みんな「今の若い者はなってない、礼儀を知らない」なんて嘆くけど、若い者が悪いんじゃない、親のせいだよ。
ときどき練習生のお母さんが「うちの子がちゃんと挨拶するようになりまし
た。ありがとうございます」って電話くれるけどさ、私は「お母さん、それはご両親が教えることですよ」って言うんだよ。
――「文学賞を生むジム」としても話題なんですね。
輪島 おう、直木賞の角田光代さん、それから読売文学賞の前田速夫さんも練習生だよ。 文学賞作家にも「なんだ、そのパンチは!」なんて言ってるけどさ(笑)。
強さを支えた焼肉
――焼肉はお好きですよね?
輪島 そりゃあもう食った、食った。
我々、スポーツ選手は身体で稼ぐわけだから、スタミナをつけるためにうんといい肉を食いましたよ。
でも、食べるだけではスタミナはつかないの。バランスよく食べて、身体を使わなきゃ。いくらいいもの食べても身体は使わないとすぐ衰えちゃうからね。
生でも食える最高の肉を、ジュッジュッ、ペロリだよ。表面だけ焼けばいいんだ、焼きすぎるとビタミンが壊れるから。
よく肉汁が流れちゃってジュージューいわせながら食べてる人がいるじゃない?焼き過ぎだね。美味しい肉汁が垂れちゃって、もったいないよ。
――初めて焼肉を食べたのは?
輪島 仕事しながらボクシングを始めたころだね。当時は塩浜(江東区)の飯場に寝泊りしてたんだけど、すぐ近くに朝鮮の人たちがやってる焼肉屋さんがあったの。
仕事が終わったらジムへ行く。で、練習が終わったら洗濯して焼肉に直行だよ。仕事もボクシングもしてるんだから、そりゃあいっぱい食ったよ。
チャンピオンになってから行けるようになった高い店とは違うよ、煙もうもうの安い店だ。でも安くても、いいものを食べさせてくれたね。腸とか胃袋とかを食べたから強い身体ができたんだと思うよ。
――でも、減量中は焼肉禁止だったんでしょうね。
輪島 減量のつらさを言って受けるのは日本だけ。外国人選手は一切、言わないよ。「ノープロブレム」だよ、試合に関係ないこと言うなって。
あんなの負けた時の言い訳だよ。減量で体力を消耗するなら、減量しなくてもいい階級に行けばいいじゃないか。 それじゃ対戦相手も大きいから、リスクも大きい。だから勝つ可能性のあるランクまで落とすわけだろう?
だったら「いつでも食えるんだ」、「この試合が終わったら食えるんだ」と自分をコントロールしなきゃ。 私が子どものころは、肉はおろか魚もめったに食えなかったよ。たまーに「近所の家の農耕馬が死んだよ」って聞くと、駆けつけて割くのを手伝うんだ。そうすると肉の塊や、はらわたをもらえるから。
「うほほほ、肉だよ〜」って、あれはうれしかったなあ。
冷蔵庫なんてないから、冬なら雪の中に埋めておいてさ。それを犬やカラスが掘り返して食おうもんなら、もう口惜しくって(笑)。
それを思うと、今は好きな時にとびきりうまい焼肉を食えるんだから、最高だよな!
――これからも焼肉ファンでいてください。今日はありがとうございました。
「輪島功一スポーツジム」で後進の指導にあたる輪島さん。直木賞作家の角田光代さん、読売文学賞を受賞した前田速夫さんも練習生。
「背が小さいし、リーチもない私が勝つにはどうしたらいいか。動いて、動いて、相手のパンチをかいくぐって打つわけですよ。だからスタミナをつけるために、焼肉は食った食った(笑)」
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