平成26年度地区交流会報告 東北・関東・甲信越地区
賛助会員向け
東北・関東・甲信越地区
日時 7月3日15時~
会場 『叙々苑』游玄亭新宿店(東京都)
吉野家ホールディングス安部修仁会長が講演
「単品ビジネスで培った独自のバリュー。
危機を乗り越えてさらに進化」
講演講師は、吉野家ホールディングス会長・安部修仁氏。
急成長前夜の『吉野家』に入社。倒産と再建を経て、BSE禍を乗り越えた40年あまりを振り返った。
「1972年、22歳で入社した当時、『吉野家』はまだ10店もない、関東だけの店でした。
外食産業という言葉がなくて、水商売と言われていた頃ですから、大卒の優秀なやつは集まらない。
僕自身も、音楽家をめざして上京したものの、バンドを潰したので、もう一度、お金を貯めてバンドをやろうとアルバイトニュース見たら、時給がいちばん高かったという、じつに不純な動機で入ったのです(笑)。
2~3年後から急速な全国展開が始まるのですが、会社はその展望のもとに、アルバイトの中から働きのいい者に適正検査をやって、ある水準以上の奴は担当者が口説きに来ました。
僕の場合は『ボーナスが出るぞ』という殺し文句で一本釣りされたのです(笑)。
採用した者には、月給よりも高いセミナーを受講させました。現場でも経験や状況を与えて成長させた。
僕も27歳で『吉野家』のない地域に展開せよと九州地区本部長に任命されました。
29歳のときにはアメリカ200店構想の先兵として、アメリカの大学に語学留学しています。
育成への熱意と投資は尋常ではなかった。
しかし数年間で50店、100店、次は200店をめざすという急激な成長は店舗や人材の粗製濫造を招き、赤字店を増やしました。
その結果、1980年に会社更生法を申し立てたのです。
メディアは「単品だから」「女性客が利用しないから」と報道をしましたが、僕らは、会社がみずから発生させた問題が倒産の原因で、事業そのものが駄目だったわけではないと考えていました。
店づくり、マネジメント、商品のクオリティは高い。コンセプトと事業形態そのものは秀逸だという確信があった。
実際、前倒しで債務を全額返済し、短期で再建ができた稀有なケースだと思います。
再建後は3年もしないうちに軌道に乗って、僕が社長になってからは常に2桁の営業利益率でした。
創業者の松田瑞穂が作った単品吉野家のコンセプトは、やはり強かったのです。
◆
2003年12月、米国でBSEが発生したとき、『なぜ牛丼を休止したのか』と今でも聞かれます。
国産と豪州産を集めれば近いものはできました。けれども『吉野家』のお客さまはヘビーユーザーが多いので『違う』となります。
僕らは、お客さまの期待するいつもの『吉野家』を死守しなければならない。
それに僕らには素材の調達や加工、店のレイアウト、組織マネジメントのノウハウがある。
これを発揮すれば、ほかの商品でもできるという確信があったのです。
◆
昨年は新しいビジネスモデルに挑戦しました。
『うまい、やすい、はやい』がキャッチフレーズでしたが、『うまい、やすい、ごゆっくり』ということで、『牛すき鍋膳』を出しまして、軌道に乗せました。
今、経営を40代のリーダーたちに転換しているところです。
創業者の松田が創りあげた、類まれな価値を進化させながら、この事業体を未来につなげることが継承者として私の役割だと思っています」
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日時 7月3日15時~
会場 『叙々苑』游玄亭新宿店(東京都)
吉野家ホールディングス安部修仁会長が講演
「単品ビジネスで培った独自のバリュー。
危機を乗り越えてさらに進化」
講演講師は、吉野家ホールディングス会長・安部修仁氏。
急成長前夜の『吉野家』に入社。倒産と再建を経て、BSE禍を乗り越えた40年あまりを振り返った。
「1972年、22歳で入社した当時、『吉野家』はまだ10店もない、関東だけの店でした。
外食産業という言葉がなくて、水商売と言われていた頃ですから、大卒の優秀なやつは集まらない。
僕自身も、音楽家をめざして上京したものの、バンドを潰したので、もう一度、お金を貯めてバンドをやろうとアルバイトニュース見たら、時給がいちばん高かったという、じつに不純な動機で入ったのです(笑)。
2~3年後から急速な全国展開が始まるのですが、会社はその展望のもとに、アルバイトの中から働きのいい者に適正検査をやって、ある水準以上の奴は担当者が口説きに来ました。
僕の場合は『ボーナスが出るぞ』という殺し文句で一本釣りされたのです(笑)。
採用した者には、月給よりも高いセミナーを受講させました。現場でも経験や状況を与えて成長させた。
僕も27歳で『吉野家』のない地域に展開せよと九州地区本部長に任命されました。
29歳のときにはアメリカ200店構想の先兵として、アメリカの大学に語学留学しています。
育成への熱意と投資は尋常ではなかった。
しかし数年間で50店、100店、次は200店をめざすという急激な成長は店舗や人材の粗製濫造を招き、赤字店を増やしました。
その結果、1980年に会社更生法を申し立てたのです。
メディアは「単品だから」「女性客が利用しないから」と報道をしましたが、僕らは、会社がみずから発生させた問題が倒産の原因で、事業そのものが駄目だったわけではないと考えていました。
店づくり、マネジメント、商品のクオリティは高い。コンセプトと事業形態そのものは秀逸だという確信があった。
実際、前倒しで債務を全額返済し、短期で再建ができた稀有なケースだと思います。
再建後は3年もしないうちに軌道に乗って、僕が社長になってからは常に2桁の営業利益率でした。
創業者の松田瑞穂が作った単品吉野家のコンセプトは、やはり強かったのです。
◆
2003年12月、米国でBSEが発生したとき、『なぜ牛丼を休止したのか』と今でも聞かれます。
国産と豪州産を集めれば近いものはできました。けれども『吉野家』のお客さまはヘビーユーザーが多いので『違う』となります。
僕らは、お客さまの期待するいつもの『吉野家』を死守しなければならない。
それに僕らには素材の調達や加工、店のレイアウト、組織マネジメントのノウハウがある。
これを発揮すれば、ほかの商品でもできるという確信があったのです。
◆
昨年は新しいビジネスモデルに挑戦しました。
『うまい、やすい、はやい』がキャッチフレーズでしたが、『うまい、やすい、ごゆっくり』ということで、『牛すき鍋膳』を出しまして、軌道に乗せました。
今、経営を40代のリーダーたちに転換しているところです。
創業者の松田が創りあげた、類まれな価値を進化させながら、この事業体を未来につなげることが継承者として私の役割だと思っています」
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